ゲイリー・レナード語録

ゲイリー講座のゆるゆるメモ

ゲイリー講座 (54) 愛ある想念のみ思い出す

【第54回】
It can be but myself I crucify.  From ACIM Workbook Lesson 196
https://www.crowdcast.io/e/it-can-be-but-myself/2
2020/11/24(PDT)→JST 11/25 10-12時

 

それ以外になにもない
33 ゲイリー:2000年前Jとマリアが「神と神の国を守るためだけに警戒する」というとき、神の王国が存在するというだけでなく、他には何も存在しないということを知っていた。多くの学習者が「全てはワンネス」って言うけど、みんなが忘れがちなのは、「それ以外になにもない」ってこと。34 じつはコースは冒頭からそう言ってるのだが、僕はそのことに気づくのに数年かかった。

 

誰かを非難したくなったとき
46 シンディ: 実用的に言うなら、誰かを裁いたり非難したくなったとき、自分が見ているのはイメージだと思い出し、そのイメージが神の真実を置き換えないようにすること。自分が(非難したくなるのに)気づいたら、「このイメージは真実ではない、私が作ったものだ」と自分に言い聞かせる。私シンディがこれを作った、という意味ではない。ここでいう私とは、もっと大きな私、決断の主体のこと。

1:03 もし誰かが非常に腹立たしいことをしてたとしても、頭おかしい行動を取っているように見えたとしても、私たちは彼らの行為を見過ごして「私は、神の子としてのその人を愛する。彼らは本当は人なのではなくて、1:04 神が創造した者だからこそ彼らを愛する。彼らは私と同じで、私たちはひとつだから。その相手は私から分離してはいない。私が自分自身を愛するには、その人を愛する必要がある。すべてを同じと見る必要がある。」それがコースの説く愛。その愛は神の子を分離させない。その愛は平等であり無条件。私たちの怒りボタンを押す人々を赦すとき、それは自分に対して愛ある親切なことをしていることになる。そして後の事は聖霊がケアしてくれる。私たちには見えない無意識の心を癒してくれる。

 

愛ある想念のみを思い出す
1:08 ゲイリー:誰かが君にムカつくことを言ったとする。君はそれに影響を受けることを放棄することもできる。誰かの過去の記憶について、悪い記憶ではなく良い記憶を思い出すこともできる。君に良いことを言ってくれた時とかね。コースはそれを選択的想起(Selective Remembering)(T-17.III.1:1-3)と言ってる。悪いことを思い出すのではなく良いことを思い出すんだ。1:09 自分が過去に誰かに不親切にしたことを悔やんでいるなら、君がその人に親切にした事を思い出すんだ。そこで君がしているのはLoving thoughtsに切り替えるということ(Ego thoughtsの代わりに)。
そんなのは単純化しすぎだと思われるかも知れないが、僕は愚直にこれをやってみた。僕には嫌な想い出がいっぱいあったからね。誰かに何か言われた記憶について攻撃の考えをやめてみた。そして彼らが親切にしてくれた事や、僕が彼らに良いことを言った時のことを思い出すようにした。1:10 しばらくすると信じられないことに、実際に僕の記憶が変わってきた。僕が以前思い出していたようなクソな記憶ではなく、別の記憶を思い出すようになってきた。その新しい記憶は、以前と同じくらいリアルなものだった。コースがやるのはそういうことだ -- 実際に君の考えを変えてしまう。それは自己増殖するような感じで、自分についての考えや、世界についての考えを変えていく。

 

★Q3「ゲイリーが啓示を体験する前にしていたことは何ですか?啓示を喚起するために呼吸法による瞑想をしたりするのですか、それとも予期しないときに啓示が訪れるのですか?」

1:27 ゲイリー:僕は呼吸法の瞑想をやってないし、それによって啓示を喚起しようとはしていない。なぜなら啓示は自分で引き起こすことはできないから。啓示は聖霊(またはJ)の決定によってもたらされる。1:28 Jは「私は聖霊の近くに居て、兄弟たちが啓示を受ける準備ができた状態に敏感なので、啓示は間接的に私によって喚起される(T-1.II.5)」といってる。だから決めるのは聖霊だ。君を励ますためにそういう体験をさせることもある。しかし自分でその体験を起こす(決定する)ことはできない。だがそれは神の直接的な体験ではある。そしてそれは予期することのできないものだ。それはただ起こる。僕が何かをしたからではなく。一度なんかは僕がTVを見てる最中に起こった。だから誰にも分からないのさ。

 

★Q9「Jは新約聖書で貧しい人々を気にかけていたといいます。Jは社会正義のために戦い、みんなが貧しい人々を助けるよう奨励したのですか?」

1:52 ゲイリー:Jは社会正義のために戦ったわけじゃない。彼が貧しい人を見る時、相手が人間ではないと知っていた。だからJが文字通り貧乏人の心配をしていたわけではない。新約聖書がそういう書き方をしただけだ。1:53 コースのほうがそのことについてよりよく説明している。
2000年前、裕福な男がJのところにきて、その時僕らもそこにいたのだが、その男は「あなたについていきたいのです」とJに言った。Jは「持ち物をすべて売り払って貧しい人に与えなさい。そして私についてきなさい」と言った。男はJのことを狂っていると思ったのか、逃げ帰ったよ(笑)。 Jが「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言ったのはこの時だ。それは、その男を低めるために言ったのではなく、彼がこの世のものに信を置いて世界を諦められないことについて言ったんだ。
1:54 コースには「貧しき者(the poor)」とは「誤ったところに思いを投入してきた者たち(those who invested wrongly)」 だと書いてある(T-12.III.1)。つまり、この世のものに信を置いて、岩の上ではなく、砂の上に家を築いている人々のことだ。1:55 Jは社会正義とかより、もっと大きな事を言ってたんだ。